「風の歌が聞こえますか」は以下に転居することとしました。
写真や皆様からのコメントは残念ながら移行できませんでしたが、過去記事は既に
引っ越しが終わっております。思えばマイぷれすには長い間お世話になりました。
管理人様にも御礼申し上げます。
「風の歌が聞こえますか」
http://d.hatena.ne.jp/away_sw
こちらの記事はそのままにさせて頂きます。
なお、日常日記の「日記帳」のほうはマイぷれすの現在のまま続けさせて頂きます。
こちらのほうは、引き続きどうぞよろしく。
以下に転居させていただきました。こちらにてよろしくお願いします。
http://awaysw.blog.so-net.ne.jp/
京都まで足を伸ばしてフェルメールに会いに行った。
京都市美術館で開催中の「フェルメールからのラブレター展」である。
京都市美術館の最寄り駅は地下鉄東西線の東山駅なのだが、ここから美術館までの数分
の道のりが僕は好きだ。小さな川(まぁ生活排水の流れ込む川ではあるが)沿いを
歩くのだが、川沿いに古い民家が並んでいてとても風情がある。
こういう雰囲気は京都ならではである。
展覧会のほうであるがフェルメール以外にもオランダ風俗画が多数集められていて、
有名なヤン・ステーンやデ・ホーホなどの作品も来ている。ただ全部で43点であるから、
やや小振りな展覧会、と言っていいだろう。
フェルメールは最後の部屋にまとめて置かれていて、そこまでに他の画家の作品を見て
ゆく構成になっている。
オランダ風俗画は印象派の作品同様、日本人には判りやすい絵だと思う。
まず宗教的バックグラウンドの理解の必要があまりなく写実的であるからだ。
ところでオランダ風俗画と言えば「寓意」が語られることが多いのだが、僕自身は
あまり興味がなく、純粋に絵画としての面白さに惹かれる。しかしながら、面白い
とは言ってもフェルメールとフェルメール以外には正直なところ大きな差を感じている。
今回もそれを改めて痛感した。たとえば、ヤン・ステーンやデ・ホーホの絵だって単独
で見ればずいぶんと立派な絵だと思う。しかしフェルメールの絵はまるで違うのだ。
いったい何処が違うのだろう?
見ていた思ったのは、フェルメール以外の画家の絵の人物は背景から浮いている感じ
がする、ということ。描かれている人達の表情もどこか作為的で舞台俳優を見ている
ような感じがする。これは各画家がその思いを込めすぎているが故なのだろうか?
対してフェルメールの描く人物は背景に溶け込んでいて作為を感じさせない。
そしてそこには「意志的なもの」はあまりない。
今回の展示会にはレンブラント工房の画家たちの絵も何点があって、さすがにレンブ
ラント門下ならではの内面性の描写を感じたが、レンブラント自身の絵もそうなの
だけれど、描写されている人物には「強い意志や内面」が感じられる。
「強い意志や内面」は背景からの浮き上がりを生む。
フェルメールの描く人物との大きな違いである。
さて今回来ているフェルメールは三点である。

手紙を書く女(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
手紙を書く女と召使い(アイルランド・ナショナル・ギャラリー)

手紙を読む青衣の女(アムステルダム国立美術館)
どれも素晴らしい絵なのだけれど、僕はこの三点の中では「手紙を書く女と召使い」
が一番気に入った(もっとも展覧会のメインは修復が成った「手紙を読む青衣の女」
のようであるが)。この絵は普段はアイルランドのダブリンにあって、なかなかお目に
かかるチャンスのない絵である。さて、これで僕が見たフェルメールは15枚になった。
まだ20枚以上、見ていない絵がある。
生きているうちに何枚見ることが出来るだろうか。
余談であるが、展覧会を見終わって、隣の平安神宮に立ち寄った。
ここの神苑という日本庭園には初めて立ち寄ったのだが、大変素晴らしい庭園だ。
午前中ということもあって殆ど人もおらず、美しい庭園を独り占めして散歩できた。
咲き誇る西神苑の睡蓮、美しい東神苑の泰平閣(橋殿)など、入場料600円は安い。
中の休憩所で、風鈴の音を聞きながら睡蓮を眺めつつ抹茶を頂いた。
静けさの中で京都を満喫した一日だった。
4月から会社のマネジメントに関わるようになって生活が激変した。
日常生活での仕事のウェイトがほぼ100%近くになってしまい、読む本も仕事の本ばかり、
日頃ぼんやり考えることも仕事のこと、会社のことばかり。それに加えて夜の宴席や
パーティが激増して自分の時間も圧倒的に減ってしまった。
ブログの更新の滞りはここだけに止まらず、日常生活の備忘録である「日記帳」のほうも
やっとこさ週に一度というところ、それも天気のこと、体調のこと、仕事の多忙ぶりに
ついて書いてそれでやっとこさ、というていたらくである。
この状況をずっと嘆かわしいこと、と思っていた。
哀しい惨めなこと、と捉えていた。
でも、もうそう思うまい、と思う。
年貢の納め時、ということである。
僕はマネジメントを勉強し、マネジメントの道で生きることを覚悟しようと思う。
これまで、経営についても、マネジメントについても、僕は勉強を怠ってきた。
それは、自分がそういう事柄に関わりたいと思っていなかったし、向いているとも
思えなかったし、好きでもなかったし、興味もなかったからである。
でも、他の仕事はともかく、マネジメントについてだけは、こういう姿勢はいかん、
と思うようになった。何故なら「他人の運命がかかっているから」である。
自分一人なら良いが、他人の運命を左右する以上、僕は懸命でなければならない。
一秒一刻を惜しんで自分の能力のあたう限り最善の選択を探し続ける義務がある。
それはある意味で「ノーブリス・オブリージュ」である(「ノーブリス」という単語
には反発を覚えるが)。
「たまたまある事柄をやるべき立場に立たされた人間」には、相応の義務があるのだ。
だから愚痴愚痴言わず、全力を尽くすのみである。
この役割は永遠ではない。
いずれ試合終了のホイッスルが鳴る日が来る。
それまでは全力でプレーするのだ。
そう、何があっても諦めなかった、なでしこジャパンの選手たちのように。
たった実質100ページの本なのに、読みかけでなかなか進まずやっと読了。
読了してみると、実に感動的かつ素晴らしい本だった。
マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を
読んだときも感動したが、この本もまた素晴らしい。
これは、マックス・ヴェーバーが1919年に学生団体を前に行った公開講演の
記録なのだが、まったく古さを感じさせない内容である。
備忘のために印象に残った部分を抜き書きする。
しかし「官僚」というものは、デマゴークとして強い影響力を持つ
個性的な指導者には、わりと簡単についてゆくものである。
これは官僚の物質的・精神的利害が、指導者の望む党勢力の拡大と
密接に結びついているからであるが、それとは別に、指導者のために
働くということ自体が、精神的な意味でかなり大きな満足感を彼らに
与えるからである。
ところでこのような職業(政治)はどんな内的な喜びを与えることが
できるか。またこのような職業に身を捧げる人間には、どのような
個人的前提条件が必要とされるであろうか。
さて、それが与えるものの第一は権力感情である。形式的にはたい
した地位にない職業政治家でも、自分はいま他人を動かしているのだ、
彼らのたいする権力にあずかっているのだという意識、とりわけ、
歴史的な重大事件の神経繊維の一本をこの手で握っているのだという
感情によって、日常生活の枠を越えてしまったような一種昂揚した気分
になれるものである。
まず我々が明記しなければならないのは、倫理的に方向付けられたすべて
の行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ち
うるということ、すなわち「心情倫理的」に方向付けられている場合と、
「責任倫理的」に方向付けられている場合がある、ということである。
(中略)
サンディカリストは、純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ、
その責任は行為者にでなく、世間の方に、他人の愚かさや−こういう人間
を創った神の意志のほうにあると考える。責任倫理家はこれに反して、
人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れる。つまり彼には、フィヒテ
がいみじくも語ったように、人間の善性と完全性を前提してかかる権利は
なく、自分の行為が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁する
ことはできないと考える。
政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係を
持った者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善
のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは人間の行為にとって
決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。
およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうと
する者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の
下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時
も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に
身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。
(中略)
自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法
に求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力
によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモン
は、愛の神、いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも、いつ解決
不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような、そんな内的な
緊張関係の中で生きているのである。
自分の都市や「祖国」は今日ではもはや万人にとって一義的な価値では
ないかもしれない。しかし諸君がこれに代えて「社会主義の未来」とか
「国際平和」を口にされる場合でも、いま申したのと同じような問題が
出てくる。なぜなら、暴力的手段を用い、責任倫理という道を通って
おこなわれる政治行為、その行為によって追求されるすべてのものは
「魂の救済」を危うくするからである。
修練によって生の現実を直視する目を持つこと。
生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと。
これだけは何としても欠かせない条件である。
たしかに政治は頭脳でおこなわれるが、頭脳だけでおこなわれるもの
では断じてない。その点では心情倫理家の言うところはまったく正しい。
しかし心情倫理家として行為すべきか、またどんな場合にどちらを選ぶ
べきかについては、誰に対しても指図がましいことは言えない。ただ
次のことだけははっきり言える。もし今この興奮の時代に −諸君はこの
興奮を「不毛」な興奮でないと信じておられるようだが、いずれにして
も興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない− 突然、
心情倫理家が輩出して、「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。
こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼ら
の愚かさ、卑俗さを根絶するであろう。」という合い言葉をわがもの顔に
振り回す場合、私ははっきり申し上げる。 −まずもって私はこの心情倫理
の背後にあるものの内容的な重みを問題にするね。そしてこれに対する私
の印象はといえば、まず相手の十中八、九までは、自分の負っている責任
を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ、
と。人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ
感動しない。
これに反して、結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って
行動する、成熟した人間―老若を問わない―がある地点まで来て、
「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」〔ルッター
の言葉〕と言うなら、測り知れない感動をうける。これは人間的に純粋で
魂をゆり動かす情景である。なぜなら、精神的に死んでいないかぎり、
われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるから
である。そのかぎりにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、
むしろ両々相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくり出す
のである。
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が
−自分の立場から見て−どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて
挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と
言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
マックス・ヴェーバーは政治というサブジェクトについて語っている
けれど、僕はもちろん、権力を持つ者の社会的行動一般についてという視点で読んだ。
恐ろしくも鋭い指摘であると思う。

職業としての政治 (岩波文庫)
前回の感想に引き続き、ベルリンでの絵の感想をさらに続ける。
今日のお題は「ベルリン絵画館(Gemaldegalerie)」に展示されている絵について。
この美術館はベルリンのいわゆる「博物館島」から離れたところにある。
近くにはベルリン・フィルハーモニーのホールや楽器博物館もある。
(かえすがえすもベルリンフィルの演奏会の切符が入手できなったのが悔しい)
ベルリン絵画館に展示されているのは13〜18世紀の名画の数々だ。
とにかくそのすさまじい量と質に圧倒される。
展示室ひとつ分の絵だけで東京なら一つの企画展が成立する。
山ほどのレンブラント、ヴァンダイク(肖像画の絵は皆、意地悪そうな表情)、
クラナッハの奇想天外、ブリューゲルの過剰さ、とにかく続けて見ているとマーラーの
交響曲全集を聞き続けているようで、頭が飽和してパンチドランカー状態になってくる
全部を一日で見ようとするのは絶対無理である。
さて、名画は数あれど僕のお目当てはやはりフェルメールである。
ここにはフェルメールが二点、「真珠の首飾りの女」と「ワイングラスを持つ女」が
ある。どちらの絵もため息が出るほど素晴らしい。 
「ワイングラスを持つ女」の赤いスカートの陰色の部分を見ているうちに、フェルメ
ールは陰の部分を描くときに強い黒を使っていないことに気づいた。並んでいる他の
画家たちの絵と見比べるとそれがはっきりわかる。それが、少しピントが合ったような
合っていないような輪郭と相まって独特の柔らかさを醸し出す。

「真珠の首飾りの女」は柔らかい外光の中で一瞬の表情のとらえ方が美しい。
女性の口元を詳細に見るとたった一つの白い点で口元からわずかに覗く歯を
表現しており、やや上がった口角と相まって女性の幸福感が切り取られている。
素晴らしい、としか言いようがない。
朝早く行ったこともあって、美術館はガラガラだった。
僕がフェルメールの前に立ったとき、その展示室には他には誰もいなかった。
フェルメールを独り占めできる至福!
こんな贅沢は一生ないだろうな、と思いつつ僕はこの二枚の前に、ただただ立ちつく
したのだった。