blog.桜井@猫丸屋 日々つらつら思うよしなしごと。TRPGと本の紹介,IT関連の話題も少し。
  記者名:桜井@猫丸屋  開始:04年04月13日  全記事:70  アクセス数: 2/ 31/ 82409



 とゆーわけで、blogをお引越し。
 マイぷれすからBloggerへ。
 やっぱり、いろいろと使い勝手が違ってて戸惑ったりしつつ。

 慣れてみると、編集のし易さではBloggerの方がだいぶイイカンジ。(最初のテンプレートの設定で大分手間取ったけど──まぁ、思い返せばマイぷれすでもそうだった)
 ただ、マイぷれすのマイ・カテゴリにあたる機能が見当たらないのと、TrackBackが打てないのはちょっと惜しい。
 代わりにバックリンク(その記事にリンクしてるページのURLを自動的にリンクする機能)はあるけど、これだけではちょっと物足りない。

 イマドキ、TrackBack機能がないなんて、と思ったらBloggerは今のBlogの形が定着する前に作られたモノなんだそうで。しかもGoogleに買収されてからは、大きな機能追加や変更は入ってないらしい。
 とりあえず、TrackBackに関してはクリボウのBlogger入門 - トラックバックを参考にHALOSCANの機能を使うことに決定。
 なるほど、探せばいろいろあるもんである。

 マイ・カテゴリの代わりについては、おいおい考えていく方向で。
 一つ二つ考えはあるけど人力に頼るのでメンドクサイし、なきゃないで困るかと言えば難しいところではある。
 いずれ、必要そうであれば改めて考えてみるということで。もしかしたら、前述のHALOSCANみたいに良いサービスがあるかもしれないし。

 さて、気分一新。
 これからは、もうちょっとこまめに更新しなくちゃと思うところなんである。







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Elysion~楽園幻想物語組曲~

 語り部のワールド設定、狭間06で書いた掌編、Star Dust

 かつ、こつ、かつ、こつ──

 夜空に撒き散らした悠久の星、街路に鮮やかに映えるネオンの星。
 どちらに視線を向けるでもなく、少し気取った足取りで達大は歩いている。
 衣装は、時代錯誤の夜会にでも向かうような真っ白なスーツ。
 チタンフレームに細長いレンズの眼鏡。
 普段、掛けない眼鏡が印象を変えている。

 かつ、こつ、かつ、こつ──

[HA06N] 小説『Star Dust』より

 Sound Horizonの楽曲の一つ、Star Dast(アルバムElysion 〜楽園幻想物語組曲〜に収録)にインスパイアされて、チャットで一発書きしたものに手を加えたもの。(元ログは語り部IRCログ 20060621 23:00:00ころ)
 いや、別にファンでもないし、カラオケで一度聞いただけども。妙に引っかかるものがあったので思わず。
 ──えと、ファンの人、怒らないでね?(びくびく)

 ちなみに狭間06は、日常回帰をキーワードにした現代ほのぼのファンタジーである。

 以前にも雪野に散る桜、雲海に浮く桜二夜にわたる、ある攻防戦ある少年の受難なんか書いてたりする。
 お暇があれば、こちらもどうぞ。


http://www.trpg.net/ML/kataribe-ml/29900/29964.html

コメント更新: 06年08月09日(水) 01:49 / 投稿数:2 / 参照投稿TrackBack(0)
きれいにまとまってる〜♪(りんね) 06年08月07日(月)
おひさしぶりです(桜井@猫丸屋) 06年08月09日(水)



吸血鬼ドラキュラ
ブカレスト(AP) 「ドラキュラ城」として知られるルーマニアブラン城が、約60年ぶりに同国政府から元の持ち主の子孫に返還される。同国文化相が23日、発表した。
CNN.co.jp - こぼれ話の記事 ドラキュラ城、元王室の子孫に返還 ルーマニア』より

 全世界の吸血鬼の皆さんに朗報!
 元祖カリスマ吸血鬼、ドラキュラ伯爵ことヴラド公の城として知られるブラン城がルーマニア政府から正統な後継者に返還されることになりましたヨ。

返還を受けるのは、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の末えいで、ニューヨーク在住の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルグ氏。26日に同城で開かれる返還式に出席するという。

 ──あれ? ヴラド公の子孫じゃないネ?
 いやいや、実は毒殺一家の伝説で知られるハプスブルグ家、吸血鬼一家でもあったのサ。

 おっと、疑ってるネ?
 我らがヴラド公の国、ワラキアを含む今のルーマニアのあたりがオスマントルコ帝国やハプスブルク家の実質的な属国だったことは知ってるよネ?

 ヴラド公(正しくはヴラド2世ドラキュラ公)のお父さん、ドラクル悪魔公(これも正しくはヴラド2世ドラクル公)の時代にワラキアは、惜しくもオスマントルコに敗れてしまったんだケド、ヴラド公の時代になってバリバリ戦って戦って押し返したんダ。
 でも哀しいかなワラキアは小国。
 幾らカリスマ吸血鬼が率いてるって言ってもマトモに戦ったんじゃ勝ち目がなかったんだネ。仕方ないから、"敵の敵は味方"原理にのっとってハプスブルク家と手を組んだのサ。

 それで、その頃にハプスブルクの美姫の白い喉をちゃっかり頂いちゃったってワケ。以来、ハプスブルク家で吸血の系譜は続いてくコトになったんダネ!
 さすがヴラド公だネ!





 ──ゴメン、ちょっと疲れてたんだ(笑)。
 ここしばらく、ガラにもなく固い記事ばっか書いてたから。
 どっからどこまでホントで、どの辺が嘘かはWikipediaをアチコチにちりばめといたんで追っかけてみて欲しい。
 ではでは!


http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN200605240023.html

コメント更新: 06年06月14日(水) 23:21 / 投稿数:4 / 参照投稿TrackBack(1)
串刺し公(りんね) 06年05月28日(日)
|-゜)(み) 06年06月13日(火)
ひゃっほう(桜井@猫丸屋) 06年06月14日(水)
( ̄□ ̄;(み) 06年06月14日(水)



国家の品格

 前の記事(『国家の品格』と論理と情緒とわたし その1)で、の国家の品格(著: 藤原正彦)という本の概要を紹介し、論理情緒は、車の両輪のようなもので、両方が必要不可欠なものである。という主張までは同意できることをお話した。
 ここから先は、残りの内容にどうして同意できないのか、というお話をしたい。

1. 論理を重んじることが情緒を滅ぼすことにはならない

 前の記事で挙げた日本人は西洋に倣って論理、論理と追いかけてきた。に対する異論である。

 確かに、明治維新から後、欧米の背中を追いかけてきたのは事実である。
 その過程で欧米の習慣を積極的に取り入れてきたし『論理を重んずる』姿勢があったこと,その影響を受けて何らかの変化があったであろうことは頷ける。
 だが、論理を重んずることが情緒を忘れることとイコールなのだろうか?
 もしそうなら、古代ギリシアとその後継たるローマ帝国から連綿と論理を練り続けてきたヨーロッパの知識人は情緒を欠いた人々ということになる。
 彼らの情緒は未発達で、野蛮で、お話にならない──と言うことになるだろうか?

 イギリスはどうだろう?
 彼らには世界に名だたるユーモアと腹芸の伝統がある。ジェントルマンの文化も根強い。紅茶を愛し、田園を愛する感受性もある。だが、彼らが論理を重んじないかといえば、とてもそうだとは思えない。
 ローマの後継を自称するフランスはどうか?
 美学という点において、世界で彼らほど洗練された国を探すことは難しいだろう。美食,美術,ファッション,音楽。どれも、高い情緒を要求するだろう。  確かに、日本の情緒の在り方とは異なる。だが、少なくとも論理を重んずることが情緒を軽んじることとイコールでないとは言えるだろう。

2. 世間では論理は重んじられていない

 次いでだいたいそも、世間では論理なるものを過剰に評価しすぎである。ということについて。著者は併せて、様々な問題を挙げ、論理の無力も主張している。だから、論理ばかりを重んじていてはいけないのだ──という帰着である。

 むろん論理に限界はない、とは言わない。
 言わないが、それにしても著者の論には頷けないことが多い。
 箇条書きにして挙げる。

  • 著者が言うほど論理は世間で重んじられていない
    上司の感覚や思いつきに振り回される部下,部下の要領を得ない(非論理的な)報告にウンザリする上司。どちらも世間では日常的に見聞きできる光景である。
    これらは論理が重んじられていないために起こる現象ではないだろうか?
  • 長い論理は成立するし、有用である
    長い論理が途中で破綻するのは間にグレイ(1か0か、確定できない)の要素が積み重なっていくからである,また人は短い論理をこそ好む──と著者は言う。確かに、それは一面正しい。
    だが、不確実であるならば実証と検証をすればいい。また、結果として結論が間違いだったとしても、そこに至った道のりは残る。それを足場にして、次のステップが踏み出され論理は完成していくものだ。
  • 論理の出発点は事実か仮定である
    現実の社会と向き合う中で、論理の出発点は論理によっては定められないという。情緒によって選択する仮説なのだ──と著者はいう。
    そんなことはない。
    論理の出発点は、常に事実か仮定である。
    もちろん、仮定に基づいて組み立てられた論理は、その仮定が正しいことが証明されなければ正しい論理とは言えない。
    情緒によって選択された出発点は、あえて言えば仮定に当たるだろうか。しかし、それも論理によって真であることが証明されなければならない。

 この本の中では、実に様々な世の中の問題が挙げられていて、たいていは論理によって引き起こされたのだと主張されている。だが、ボクには、そこで挙げられている『論理』はコドモの屁理屈以下のもののように見える。

 確かにボクも、しばしばコドモの屁理屈以下のものを振りかざしてしまうことがある。追い詰められたときに顕著でもある。
 でも、それは思い込みや飛躍やすり替え,実証や検証の不在など、論理とは相反するものがたっぷりと含まれた『非論理』なのだ。これと『論理』を一緒くたにして語るのは明らかに正しくない。
 論理を巧みに見せかけ、うかうかしていると正しいことだと思い込まされるような非論理,あるいは単に見苦しいだけの自己正当化の非論理。
 確かに、そんなものを振りかざされるよりは、美しく成熟した情緒によって語られた方がはるかにマシだろう。
 だが──それでは問題は解決しないのだ。

 著者は問題解決に対して考察が不十分か、経験が少ないのではないか──ボクにはそのように見える。
 問題あるいは課題を明確にし、事実に基づいて問題に関する仮説を立て、方策を検討し、一つ一つ実行していく。間に情緒の挟まる隙は少ない。(もちろん、人間を相手にする場合には、たっぷりと情緒が必要とされる場面もある)
 まさに論理のカタマリであると言っていい。
 トヨタのカイゼンに始まる『なぜなぜ分析』などは、著者がまさしく否定した『長い論理』を破綻無く組み立てることができる道具である。しかも、高度な数学者ならぬ現場の担当者たちをして、それを可能にさせるための道具である。
 そして、その成果はトヨタの底力となって本質的な問題解決へと結びついている。
 論理は無力だろうか? 長い論理は成立しないだろうか?

 むしろ、ボクは論理不在の問題解決こそが先送り,責任転嫁,状況の悪化,再発の繰り返しを招いていると思う。
 また、それは論理の価値が十分に評価されず、そのために論理力を育てる努力が怠られてきたことの証左ではないだろうか。

 と言うところで、程よい長さになった。
 続きはき次の記事(『国家の品格』と論理と情緒とわたし その3)で改めて。


http://hiki.cre.jp/write/?KokkaNoHinkaku

コメント更新: 06年05月22日(月) 02:39 / 投稿数:3 / 参照投稿TrackBack(0)
武士道遥拝?(さすらい人) 06年05月19日(金)
読んでみたいんだよね(りんね) 06年05月20日(土)
なんだか大きな宿題をもらった気分(桜井@猫丸屋) 06年05月22日(月)



国家の品格

 巷で話題の国家の品格(著: 藤原正彦)を読んだんである。
 読むに至ったきっかけは、カバー折込のアオリに尽きる。

日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論。

国家の品格、カバー折り返しの紹介文

 実に耳障りのいいお言葉で、控えめに言っても好きになれない。
 ところがこれが、世間では偉く受けていて職場(ボクの職場は、いわゆるシステム部門ってヤツで世間でのイメージは情緒よりも精巧な論理が尊ばれることになっている)でさえ見かけることがある。
 そこで、ボクとして文句をつけたくて仕方ないわけだけども、流石に読みもしないでアレコレ言うのは失礼だし、あまりに説得力もないと考えた次第。
 要するに、難癖をつけるために読んだようなもので、以下の文章はその点を差し引いて読んで頂ければ幸いである。

 著者の主張を要約すると、次のようなものになる。

  1. 論理と情緒は、車の両輪のようなもので、両方が必要不可欠なものである。
  2. 日本人は西洋に倣って論理、論理と追いかけてきた。
    その結果、元より美徳として持っていた情緒の文化を忘れ、世の中は悪くなった
  3. だいたいそも、世間では論理なるものを過剰に評価しすぎである。
    論理には限界があり、最も重要なことは論理では説明できず、論理の出発点は論理によって定めることができず、世の中のことは長い論理では説明できない。
  4. 自由・平等・民主主義は本質的にフィクションでもある。
    なぜならば本質的に不完全であるところの論理性に寄りかかるものだからである。
  5. ゆえに、日本人は今こそ優れた情緒の文化=武士道に立ち返り、国家の品格を取り戻すべきである。
    そのためには世界から孤立しても構わない。ひと時は孤立するかもしれないが、いずれ世界中が品格ある国家の姿に気づき、自ずから理解されるであろう。

 1に関しては頷ける。同感である。
 論理とは乾いたものであり、破綻なく汲み上げられた論理は美しいが、いささか潤いに欠ける。ここで言う潤いとはつまり、精密機械における機械油のようなものである。
 人間は論理を操るが、感情にしばしば動かされる生き物でもある。そして感情は本質的には論理によって制御することができない。全くの別物だからだ。
 豊かに成熟した情緒は、感情を柔らかく受け止め、その在り様を整える。
 つまり潤いであり、機械油のようなものである。

 その次の2あたりから、ちょっと怪しい感じがしてくる。
 ──と、言ったところで記事が大分長くなっていることに気がついた。
 そんなわけで、続きは次の記事(『国家の品格』と論理と情緒とわたし その2)へ引き継ぐことにして、一旦、記事を閉じる。


http://hiki.cre.jp/write/?KokkaNoHinkaku

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