ヒロさん日記 のTopへ ブログ主:Hiro-san  執筆日:2009/8/22
新聞記者、広告編集、翻訳・通訳、ITビジネス、イギリス留学をへて、高校英語教師。




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■「読書の歴史 - あるいは読者の歴史」について
  2009/8/22(土) 21:37
かつて文字の読み書きは神官の秘め事だった。粘土板からパピルスや羊皮紙に移行したころ、読書は「音読」と同義語だった。希少価値としての書物は、数多くの人の前で朗読され、共有された。中世修道院では「読むこと=書写すること」であり、テキストは暗記の対象だった。

「黙読」が普及するにつれて、本は1人で読まれるものになった。書籍の小型化が進むと、本は列車や旅先にも携行され、ペーパーバックや廉価版が登場すると、貸本屋が衰退し、本は自由に買われるものになった。

今後の「書籍」の未来は、完全デジタル化とeペーパーだ。音読から黙読に進化した読書は、ここからさらに音声回路(ウェルニッケ野)に頼らない“視る読書”への飛躍がすでに始まっている。その次は、本に触っただけで情報の要不要が即座にわかる“感じる読書”であろうか。

■実生活はすべてデジャビュ?

『読書の歴史 ― あるいは読者の歴史』の著者アルベルト・マングェルのように、幼少期から大量の読書を続け、数カ国語を自由に読み書きする超人たちに言わせると、実生活はすべて、すでにどこかで読んだことのあるデジャビュ(既視感)の風景なのだという。

  • 「つまり自分が先に読んだものが実現されていくという、通常の時の流れに逆らって進んでいるような印象を与えるのである。(p22)
  • プラトンのように、私は知識から出発してその対象物への道を辿った。事物よりもその概念こそ実在のものであると私は気づいたのだ。(p23)
  • 「物語は、人生の早い段階から人生と関わりを持つものであって、将来の見通しといったものを既に与えてくれるのである」(p23 心理学者ジェームズ・ヒルマンの言葉)

    ■浮気や変節を楽しむ

    本を理解したと言い張る人は、何を理解したというのか。同じテキストを読んで、ある読者は意気消沈し、別の読者はこれを笑い飛ばす。毎年同じ時期に同じ本を読むことに決めると、自分との関係が変化していく。

    新たに読む作品は、以前に読んだものの上に積み重なっていく。読者家であればあるほど、自分の人生経験の上に積み重なるのではなく、読書経験の上に累積的に、幾何学的に積み重なっていくのだ。アルゼンチンの作家エゼキエル・マルチネス・エストラーダは次のように述べる。

    ある本を読みながら、以前読んだ別のものに感じた感情を思い出したり、呼び戻したり、あるいは比較してみたりといったことをする人がいる。これは最も精巧な姦通の一形式である。(p34)

    ■読み聞かせ

    子供への読み聞かせが9〜10才で終わってしまうのはさみしい。大人の朗読会にはさまざまな楽しみがある。ある物語を読んでいるのに、地名や登場人物を勝手に地元バージョンに変えて読まれる朗読会もあった。さらに手が込んでくると、話し手の作り話にすぎないのに、本を持つという行為によって場を圧倒する業師も現れた。

    ジェーン・オースティンの家庭では、小さいころから朗読会が頻繁に開かれていた。読書は自分のペースで立ち止まる自由度があるが、一方、朗読会や読み聞かせは音楽や演劇に近く、会話が“生き物”のように聞く者の中で踊り出す。朗読本には、ピアノ、メゾフォルテ、スタッカートのような朗読記号が追加される。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』『エマ』などの作品には、朗読会で蓄積された生き生きとした会話が花開いているはずだ。

    ■書物の形態が決めるもの

    古代アレキサンドリアに収められた書物のほとんどは巻物であり、巻物の長さが1章の長さを決めていた。『イーリアス』の24章はそのままに24巻だ。書物は「巻物」から「綴じ本」に発展したが、コンピュータ時代では再び巻物(スクロール)に回帰している。

    説教台に乗る羊皮紙は2折(30cm×40cm)のフォリオだ。このサイズで聖書を記述すると羊200頭が必要。4折のクウォートもどっしりと重く、たくさんの書物を同時参照するときは、水車のような回転机が使われた(デュマの『三銃士』にも登場する)。8折のオクタヴォがお目見えするのは1501年になってからだ。

    ■見せ本のイメージ活用

    空箱や表紙厚紙だけで、中身のない本も流行した。自宅の本棚に「俺は読んでるぞ」と鎮座させる見せ本になる。上流階級は旅行や外出で携行する本もファッションとして気を使った。出版数が少なかった時代には「同じ本を持ち歩く人」に出会うことがあり、思わず声を掛けたくなる。自分と同じ車種で色も同じ車で出会ったときは、イヨッとつい合図したくなるようなものか。

    日本では書店のレジで掛けられたカバー紙で表紙を隠している人が多いが、いっそのことクラシック風の“見せ本”カバーを販売したらどうか。村上春樹はジョージ・オーウェルの偽カバーで読んでみたい私だ。

    ■五感をすべて使った読書

    本を読むときは五感を総動員してストーリーの状況をありありと思い浮かべる、という話ではない。文字のかすれや紙の汚れ・しみをしっかり目に焼き付け、ページのめくれる音を音楽のように楽しみ、インク・紙・革の臭いに酔いしれ、ざらざらとした手触りの違いを点字のように読み取り、指を舐めながら本をめくることで本の味を確かめる。(なめた味が青酸カリだったりすると、『薔薇の名前』のように昇天してしまう・・・)

    さらに本は一語一語を噛み締め、しっかりと咀嚼し、消化して血と肉にしてしまう。人類最初の“食べる本”は、旧約聖書に登場する「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」(エゼキエル3:3)のようだ。蜂蜜たっぷりの渦巻きパンのごとしだが、時代が下ると「口には蜜のように甘かったが、食べると、私の腹は苦くなった」(新約・黙示録10:11)人もいるので、甘いもの食べ過ぎには注意しよう。

    ■麻薬のような読書

    私が大学受験で予備校に通ったとき、隣に座っていた読書マニアが「本を読んでも人生がよくなるとは限らない」と嘆いていた。せっかく勉強しようと思っているのに、読み始めたら止まらない本(平井和正の『幻魔大戦』や各種の恋愛小説)が山ほどあり、生活に支障をきたしているという。

    「本がなかったら生きていけない」という子供にカフカは説教する。

    人生においては、全てのものに意味があり、全てのものに目的があるのであって、それを何かに置き換えようたって、そうはいかない。自分の経験を他人にしてもらうことなんてことはできないだろう。この世界と本の関係だって同じさ。籠の中の鳥のように、自分の人生を本の中に閉じ込めようとしたって、それは無駄だ。

    カフカはその一方で、本に幸福を求めてはいけない、そんな本は自分で書け、という。

    要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が頭をぶん殴られた時のように我々を揺り動かし、目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんものをわざわざ読む必要があるというのか?<中略>我々を幸福にしてくれる本なんて、困ったときに自分たちで書けばよい。(p111)

    頭にガツンと一発!の読書が必要だ。





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