| 蕩尽伝説 |
| 大塚日記→ライコスと流れてきた。流浪の哲学者、蕩尽伝説のブログである(哲学・文学・映画・拉麺・競馬) |
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つぶやき
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● とくに名を秘すカレー屋 夜の稼ぎ時のはずなのに客はひとり。こりゃ潰れると、瞑目す。 代替わりし、味が落ちた。九州出身のガンコ親父に文句ばかり言って、子供たちはその味の深み、複雑な辛さを継承できなかった。 サービスは元々なってなかった。ひところ、やたら高飛車に客に応対するアルバイトのネーちゃんがいて、あきらかに人格障害のようだった。接客業などしてはいけない人だ。いつも不機嫌で、注文しようとすると、その氷のように冷淡な対応にゾッとする。 いまだに寒気とともに思い出す。どこからこんな人材を拾ってきた? 唖然とした。ひとを見る目が全然ない。客商売に向いてない一家だ。もともと社長さんは自衛隊出身らしい。上しか見てない。言動が粗暴で、店員が居着かない。やむなく家族経営になる。 一時期は行列のできる店で、並んでも入れなかったほど。いまもマスコミ露出しまくりなのに、近所の客が寄りつかない。昔の光、今いずこ。いくら宣伝を打ったってダメで、この手のこじんまりした個人経営の店は、ご近所に深く根を下ろすのが肝要。 この肝心な点を弁えてない。ご近所よりマスコミに頼った。マスコミを支配する国家の幻想にすがった。空の空なるものだが、現実よりも幻想のほうがリアルに思えたのだろう。近いものより遠いもののほうがリアルに思える。これを遠近法の錯覚と呼ぶことにしよう。50代以上の世代は、みんなこれにやられている。近くを信じず、遠くばかり見る。下を固めず、上ばかり目ざす。情報がどうたらと言っても、すべては空の空。 だいたい店の改装をしたのがウンの尽き。以前はレストランの風格を持っていて、近くの病院の接待にも盛んに使われていたほどなのに、それでは客の回転が悪い。明るい喫茶店風にして回転を上げようとした。おのずと長居ができなくなった。居づらくて、カネを落とす大人のグループ客に見離された。となると、飛び込みの一見さんが中心になる。大人の富裕層じゃなく、若者向けの浮遊層の店になった。そのくせ値段が張るのでは、閑古鳥が鳴くのも道理。盛者必衰の理というもの。 挽回しようと新店を出したが、途方もなく寂れた海沿いの商店街のど真ん中で、客など来るはずもない。たちまち失敗し、その分を回収しようと単価がますます上がる。ますます客は離れる。とにかく客商売でやっちゃいけないことを次から次にくりだす。 かつては1000円弱で腹いっぱいになる店で、やたらCPがよかった。いまや経営の失敗を単価に上乗せし、サイドメニューをうっかり頼んだりすると1500円ぐらい平気でする。このデフレ時代に!お隣りのラーメン・チェーン店では500円でいいかげん腹いっぱいになるというのに。 かつての常連のおばさんが久しぶりに来店し、あれこれ話をしている。このガンコ親父、死病のようで、おばさんはしきりに心配してる。一代で築いた店を子供らに委ねた途端この惨状。死を眼前に、やりきれないのではないか。こんな死に方はしたくない。 言い添えておけば、モノは悪くない。レシピ自体は日本のカレー店でも有数のもの。しっかり作れば、絶対美味しい。あとは普通に接客すればいいだけ。にもかかわらず、その肝心なことができない。目の前の人間が見えてないから、あたりまえの接客ができない。他人相手ではなく、自らの幻想のなかで商売をしてる。 思えば今のトヨタも似たようなものかも(笑)日本は深い幻想のなかを漂流している。 ● とくに激しくもない運動 一念発起し、スポーツウェアのたぐいを一新、ジムへ。こころ浮き立つ。 昔はなかったテレビ付きのバイク。たまたま『ブラタモリ』@NHKの秋葉原の回を再放送していて、ひどく面白い。秋葉原の駅の回りのどこか荒涼とした雰囲気がどこから来るのかと思っていたら、江戸時代ここは運河だったわけね。 途中でやめられず、結局、1時間ほど漕ぎつづける。いい汗かいた。筋肉に心地よい疲労感。ぐふふ。まだまだ老けこむわけにはいかんて。いよいよ世間ではオジさんの時代が始まろうとしてるのに。>あ、気の毒だが、いまの若者世代は全滅ね。ご老人たちに取り入ろうとしたのが間違いのもと。 マシンジムには長く足を踏み入れなかった。ここの客が激減し、客離れを食い止めようとコーチの連中がやたら話しかけてくる。その営業会話が鬱陶しい。泳いでばかりいた。その間にスポーツウェアの流行も一変。買い替えるのも面倒で、ますます足が遠のいた。 ジムもあまりに閑散とすると、なにかと面倒。却って人間関係みたいのに巻き込まれそうになる。オレはひとり粛々と体を鍛えたいだけ。黙然と瞑想するにはいい場所なのだ。呼吸法とか再開しよう。すっかり忘れていた。 ● とくに優秀でもないレポート 心身ともに爽快。24時間営業の店で深更まで採点。意外や、面白いレポートが多い。冬休みに1度レポートを課し、コメントをつけて返した成果が出ている。ウィキペディアの丸写しのようなのはほとんどない。 ベトナム人のグループで、リーダー格の男は1回目もなかなか面白い村上春樹論を書いてきた。が、ほかの数人はありきたりの作家紹介&作品紹介に終始する。外国人留学生は(日本人もそうだけど)優を取ろうとカンちがいして、講義の要約をしたり、ネットで拾った情報で紙面を埋め尽くしたりしがち。 それだけはやるな、と釘を刺しておいた。あたりさわりのない解り切ったことを書いても、なんの意味もない。オレにとっても、キミらにとっても。そんなの、書き写すだけ無駄。手がくたびれるだけ。なにか自分の頭で考えろ! で、2回目の今回は鉛筆でちゃんと自分の考えを書いてきた。さすがに字は汚なく、文法的にも間違いだらけだが、前回よりはるかに面白い。読むだけの内容のあるレポートになっている。やればできるじゃん! 帰宅。りょくけんで一週間も前に買って放置していたキャベツの包装を解くが、ちっとも傷んでない。包丁を入れると、その肉厚重厚にびっくりする。刻んで、塩とマヨネーズで食べる。このうえない酒のつまみ。食べ切れず、冷蔵庫にしまう。明日はキャベツとアンチョビのパスタを作ろう。 ● とくに面白くもないDVD ○『あなたは私のムコになる』 主演のサンドラ・ブロックのファンなので見たが、切れ味の悪いコメディ。『プラダを着た悪魔』のパクり。メリル・ストリープとはちがい、もともとサンドラが悪い人に見えないのが致命的だし、その部下の青年もアン・ハサウェイほどキャラ立ちしてない。全体に微温的で、大笑いするようなシーンがない。 ○『マーシャル博士の恐竜ランド』 低予算の割にはCGを破綻なく見せ、ゴージャス。最初から最後までオゲレツなギャグのてんこもり。ばかばかしくて笑える。B級映画として深夜寝る前に見るには悪くない。
昨夜しごく愉快な思いで寝に就いたが、愉快な時というのは体が暖まっているもの。またしても毛布一枚で寝てしまう。夜半に寒さでぶるぶる震える。風邪がぶり返したら事だ。必ず毛布を2枚かけるようにしよう。 ちなみにオレは布団が嫌い。敷布団も掛け布団も使わない。もちもち、ふっくらした感覚が生理的にダメだ。不自然な体勢でバタッと寝るのが理想。思えば、電車の中がいちばんよく眠れるような。 ● ホントは高いスポーツウェア 長年、試行錯誤をつづけた末、結論。泳いでも痩せない。 やはりジムで走り、筋肉を鍛え、血ヘドを吐くようなトレーニングを積まなければ、アンコ型力士体型から脱出できない。安易な道を選んでいるようではダメだ。 とはいえ、このところもっぱら泳いでばかり。本格的にジム通いしようにも着るものがない。着るものがなければ運動もできない。先日来、いろいろ物色していた。 第2次大戦の惨禍を生き残った闇市焼け跡ジジイたちはきっとこう言うだろう、「パンツにランニングでも運動なんかできる」と。今の世の現実をなに1つご存知ない。スポーツクラブでイマドキそんな格好でもした日には、たちまちキチガイ扱いされて出入り禁止になる。 活字しか読まない人には現実が見えない。現実というものは外を歩き回らなければ決して目に入らない。 そもそもスポーツウェアはとても高い。渋谷のガキどもはジャージを腰まで下げてうろちょろしてる。体操着姿でさぞや貧乏……なのかと言えば話はまったく逆で、ブランド物のジャージは値が張る。あんたらの洋服の青山のゆうに3倍はする。上から下まで合わせて数十万はするんとちゃう? やつら、けっこうカネを持っているのだ。 ● 国母と母国 そういえば、冬季オリンピックで国母選手の身なりが問題になった。「母国、母国」と、やたら見かける。母国は日本に決まってるよなあ。何ごとかと思ったら「国母」だった(笑) オレは冬季オリンピックに関心がない。だいたい冬が嫌い。雪とか氷を見てるだけで寒々しくなる。冬は家でジッとしてるもんだぜ。雪の斜面を滑ろうなんて理不尽なことをするから死人が出るのだ。 で、国母だ。あたかも大罪を犯したかのようにデカデカとNHKの7時のニュースで取り上げられ、初めて知った。「服装の乱れは心の乱れ」と言わんばかりの報道だ。そんな大事件かよ! んなのどうだっていいじゃん。 なにかというと倫理、倫理だ。スポーツに必要なのはルールであって、倫理ではない。てか、倫理や道徳ばかり気にするようなやからは強くなれないし、教え子を強くもできない。そんなの日本の場合、結局、世間体にすぎないからだ。勝敗は世間ウケで決まるわけじゃない。勝つか負けるか、だ。負けたら鼻も引っかけられない。無責任なマスコミに媚びる必要なんか全然ない。 ふだんからもっと注目される競技だと世間向けの気遣いができるが、スノボはそうじゃない。だから、のこのこ普段着の感覚でテレビに出てきた。世間に反抗してるというより、普通の若者が普通にテレビに出てきた。それだけで、びっくりしている。シャツをズボンに入れない!というだけで怒り狂ってやがる(笑)国家反逆罪のような大騒ぎ。どうかしてるぜ、あんたら。どんだけズレてんだか。オレだってもう、この20年シャツをズボンに入れたことがない。 田舎でオリンピックのテレビを見てる連中って、今の東京の風俗を知らない。頭のなかが戦前。腰パンなんて、しごく当たり前の都会風俗なんだが、あいにく田舎では存在が許されない。オレも地方では見た覚えがない。それがいきなりテレビで大写しにされ、驚天動地ということらしい。やれやれ。 ● ロンドンスポーツ狂詩曲 べつだんファッションにこだわるほうじゃない。てか、もうほとんど諦めてる(泣)たかがスポーツウェアにカネはかけられない。いまの世の中、探せば必ず抜け道はあるはず。ネットで検索すると、上野アメ横がやたら安い。「人の行く裏に道あり花の山」てか。企業にだまされ、高値で買わされる世間知らずはいい面の皮。 駅前の丸井の真横にちっぽけなスポーツ用品店があるのは知ってたが、これが「スポーツジュエン」という激安で有名な店。まぎれもない有名ブランド品であっても半額が当たり前。アメ横に幾つも支店がある。 でも、ここはまだ理性が残っているほう。どうやら最安は「ロンドンスポーツ」ではないか。半額どころか7割引。今日は特別にそこからさらに1割引くとか。合わせて8割引の叩き売り。もと1万のが2千円。そりゃ、客が押し寄せるわな。毎日が大売り出し、大安売り。流行遅れとはいえ、れっきとしたブランド品で、ものは悪くない。 そんな店だから、見映えは関係ない。大きな台にあらゆるサイズのジャージやらトレーナーやらTシャツやらが無造作に積み上げられ、天にも届くかたまりと化している。海中のイワシの群れのよう。手当たりしだいに「これは!」と思える商品を抜き出す。気をつけないと衣類の山がドッと地面に崩れ落ちる。将棋崩しの要領。 ほとんど無数にある商品の中から、お気に入りのデザインでサイズの合う、値段的にも2千円前後のを選ぶ。選択の余地が無限にあると、かえって人間は迷う。むやみに時間がかかり、途中で何度も挫けそうになる。これならいっそ正規の値段で買ったほうが楽かも……、と資本主義の悪魔の囁きが聞こえる。 苦心惨憺してアディダスやらケイパやら数着選び、あとで家で試着してみたら、どれもなかなか。運動が楽しみになる。思えば、そんなひどいモノはないからブランド品なわけで、もっと気軽に手当たり次第に購入しても問題ないみたい。多少流行遅れでも、どうだっていいし。 さて、この店でガンガン今の若手バンドの曲がかかっていて、それがどれもこれも生活の窮状を歌う私小説風の歌詞なのである。苦しいけれど頑張るぞ、てか。この期に及んで。めまいがした。日本をこんな有り様にした老人どもを皆殺しにしろ!と、なぜ叫べない(笑)え、それではCDを出してもらえない? なら、出すな! みんな私が悪いんですぅ、と泣き叫ぶように土下座しつづける。額の土下座ダコが終いに割れて出血する。血まみれのまま、日本に生まれて幸せでした、お父さんお母さんありがとう、みんなみんないいひとですぅ〜と絶叫しがなら中央線に飛び込む。血と肉と骨の塊になって人生を終える。 帰りにアメ横をぶらぶら歩いたが、この街にはドラマが詰まっていると思ったなあ。やたら色んな人たちがいる。にもかかわらず、アメ横を舞台にした映画もドラマも全然ない。自らの生活の内にドラマを見出すという視線が存在しないからだ。もっと言えば、自らの人生を客観的に見て、これを豊かな物語に仕立てることができない。 なんでもすぐ難病モノにしてしまう。アメ横の花子さんが難病にかかり、上野の中心で愛を叫びながら、愛する人たちに取り囲まれ、息を引き取る……というような(笑) テレビや映画の質はもうずいぶん落ちている。まともなドラマを全然作れなくなった。これは業界だけの責任とは言えず、日本社会自体がドラマを生み出せなくなっているという現実の反映である。オリンピックやワールドカップのような外国のスポーツイベントに頼る。外国頼り。 テレビでも映画でも、自分らは「いいひと」だと自己愛を充足させるような物語しか流通しない。だからドラマにガイジンが出てこない。実際にはもう労働の現場の至るところに外国人がいるのに、見ないふり。透明人間のような扱いだ。そんなことで今の世のドラマが描けるはずもない。 他なるもの、未知なるものとの交流から初めてドラマは生まれる。自らが他なるもの、未知なるものに変容してゆくのがドラマの本質である。同じもの、内なるものとの間で延々とくり広げられるのは余興であって、ドラマではない。 自らが取り返しのつかぬものへ変化し変容すること。それがドラマであり、それが人生である。今の日本人は変化を恐れ、ドラマを恐れ、人生を恐れている。ちがうものになることを恐れている。だからこの国には未来がない。 ● メディアの凋落 『東洋経済』の今週号を読む。新聞はもう完全にアウトだ。挽回しようと新本社ビルやら新印刷工場を建て、それでいよいよクビが回らなくなったりしてるらしい。モノの時代は終わりつつあるのに、モノしか知らない老人たちがモノの論理にしがみつく。どんどん自分で自分のクビを絞めている。 小沢報道の行く末を見守っていたが、結局のところ反省の弁なし。「お前が悪い」の一辺倒。今回の件で社会からの信認を完全に失ったとオレは思うね。自民党の末期によく似ている。オレらの代わりはいないと錯覚してるんだろうけど、いまや明らかにネットのほうが信頼性の高い情報を流すようになっている。 レコードがCDに置き換わったとき、「レコードにしか出せない音がある」と専門家の人たちは頑張ったもの。むろん大勢は変わらなかった。すぐにCDの時代が来たが、いまやその覇権も終わろうとしている。 思えば、紙の時代が長すぎた。紙への愛着は信仰のようなものにすぎない。あるいは習慣だ。 そもそも信仰は習慣であり、習慣が信仰を生み出す。習慣が変われば信仰は消える。信仰が消え、いわば神の死とともに紙の時代は終わろうとしている。 この間の朝日の報道とか、ひどいものだと思ったが、社の内情はメタメタらしい。読売以外はどこも深刻な経営危機。貧すれば鈍すというやつ。まともな人材がほとんど残っていない。ま、ここらも自民党の末期に似ている。 印刷&配送という工程が新聞の桎梏になっている。新聞社というのは半ば工場なのだ。回転させていくのが至上命題。それにくらべ、テレビのほうがまだ若干の余裕があるというのは事実だろう。なにかと融通が効く。 根本的な問題として、映像は文字を取りこめるが、文字は映像を取りこめない。いまやますますリアルタイム映像の時代で、文字に特化した媒体が没落するのは時代の流れだ。 撮影機器がまだ高価だし、素人には扱いにくい。これがデジカメ並みの簡便さと性能を供え、広く一般に普及し、自分らで番組とか作品を作ろうとする人たちや組織がもっと出てくれば、状況は劇的に変わるだろう。ようは技術の問題である。 映画やテレビといった既成の業界に技術的な蓄積などほとんどない。人材など全然いない。自民党がそうだったように、既成組織の内実はもうすっかりスカスカになっている。ある種の臨界点を超えれば、雪崩のように崩壊するだろう。 もっとも壊れる速度が業界により速い遅いがある。映画はとっくに壊れている。新聞や出版はいよいよ加速度的に潰れてゆく(産経&毎日)。テレビは今の3分の2ほどに淘汰される。こんなところだろう。無理をつづけているところがある日、突然、頓死する。 ● 立ち食い寿司・大江戸@アメ横 帰りにラーメンでも食おうかと思ったが、あいにく上野にはこれといった店がない。「大江戸」とかいう立ち食い寿司の店がやけに安そう。1皿125円だって。入ってみる。ここらでやたら目立つチェーン店だ。 本当はどんな魚を使っているやら判ったものじゃないが、なんせどれも125円だ。ブリ、ハマチ、真鯛、ウニ、赤貝、白子と、思いつくまま10皿ほどで1000円ちょっと。たしかに安い。あさりのみそ汁が美味い。 オヤジさんは笑みを絶やさず、客の注文をみごとに捌いて行く。 若い3人連れの客がみんなで稟議したあと10数種類を1度に注文する。どうやら居酒屋かファミレスとカンちがいしているようだ。そうじゃないだろ、立ち食い寿司の場合、食べたいネタを各々が思い思いに注文してゆくのが筋というもの。 にもかかわらずオヤジは全員分の注文を聞いたなりに覚え、聞き返さない。悠揚迫らず、たちまち全員分を握って出す。数分もかからない。目の前で見てて、感心することしきり。ふつうの寿司屋より、よほど技術が要りそうだ。ガキどもは目の前で何が起こっているのか、まるで気づかず、バイトの話をしてる。 ● 上野でサンコン 通りに出たら、サンコンを目撃しる!笑い声で本人と判る。黒かった。
● 酒け麺もといし@神田 ノドがいがらっぽく風邪気味だ。もといしのニンニクらーめんでもぶち込み、週末に向けて体調を恢復せん!などと思い、しの降る雨の神田へ。幸い4人しか並んでない。チャンス! と思ったが、それから延々1時間以上待たされる。信じられない! 後ろに並んでた客も、いいかげん呆れて次々離脱してゆく。さしものオレも怒りがこみ上げてくる。ラーメン屋ってやつは、そんなに偉いんかい。常識ある社会人が冷たい雨の夜、なにが悲しゅうて、こんな道端で傘を差してラーメン屋ごときに並ばにゃならん!てか、風邪気味だしぃ。ええい、忌忌しい。カノッサの屈辱を思い出す。 夜の部はラーメン居酒屋を謳っているので、近所の貧乏サラリーマンどもがラーメン1杯で延々と粘るのである。 見てたら、最初から最後までカウンター席に居座った若い3人連れがいた。宇都宮に出張した際、ギョウザを食べ歩いた話を延々としてる。そのあとは『ドラゴンボール』。 この3人にかぎらない、いまやサラリーマンが飲んでするのはマンガやアニメの話ばかり。昔はこんな席では野球やサッカーがお約束だったが。。いまどき野球の話をするのはお年寄りだけ。 とまれ、こんなことじゃ商売あがったりだろう。ラーメン居酒屋というコンセプトは、もっとキャパがある店での話。この規模の店で、この立地で酒と肴を出したら、こうなるに決まってる。 いや本来キャパはある。2階はテーブル席で20人は入れるらしいのだが、そっちは予約でフル回転していて、飛び込みの客は入れない。となると、カウンター10席を奪い合うことになる。しかし、そこはアニメヲタのサラリーマンが持てるウンチクを傾け尽くしながら、ひたすら粘っているという地獄絵だ。デスビームで皆殺しにしてやりたい。 ようやくありついた「どにんにく」(780円)。文字通り、これでもか!とニンニクをぶちこんだ究極のまぜ麺。なんせ麺の量より、ニンニクをあえた具のほうが多い。どろどろだ。冷し麺だったのが意外。焼き麺のほうが絶対いいのに。 麺を食べ終え、にんにくの具が余ってしまったので、追加で塩ラーメンのハーフ(370円)を注文。これはなんてことない、さほど工夫も感じられないシンプルな普通の塩ラーメンだ。もんで、ここに残った具をぶちこみ、塩にんにくラーメンにしる!さらには卓上の刻みタマネギやら、揚げニンニクやらもドカン&ドカンとぶちこむ!をを、これぞ究極のド・にんにく! てなわけで、料理じたいには満足したが、若い店員が気が利かず、愛想がない。「いらっしゃいませ!」の声が出ない。接客から料理から大将がひとりで奮闘している。下ごしらえしていた隣りの店員に、できあがったラーメンを手渡そうとして、相手が手を洗ってないのに気づき、「洗え」と叱っていた。こんなの飲食業の常識で、言われなければ出来ないようじゃ先がない。 ま、これにかぎらない。なんであれ、言われて初めて気づくようなやつには才能がない。言われなくても気づくのが才能というもの。ほんとうの勝負は言葉以前のところで決している。なんでちゃんと教えてくれないの!とか文句を言うやつは、たいてい教えても身につかない。言葉では遅すぎる、という肝心のことが解っていないからだ。やる気のあるやつは自分ひとりでどんどん進む。受け身のやつ、向こうから指示が来るのを待ってるやつは、一生待ちつづけたまま終わる。 いずれにせよ、この現状ではここは使えない。昼はラーメン屋とはいえ、「やきじろう」も「どにんにく」も夜のメニューで、昼は出していない。で、夜の居酒屋タイムはこの有り様。5時の開店直後を襲う以外に途はない、と判明。 * おかげさまで風邪悪化。のどがパンパンに腫れる。どうすべい。せっかく運動しようと張り切ってたのに。 深夜、生ガキをさかなに日本酒を飲みながら『カルティキ——悪魔の人食い生物』(1959年)を見る。イタリアのB級SF映画。マヤ文明を滅ぼした人食いアメーバが現代に蘇る。 「カルティキ」とか言うと、「こちとら江戸っ子だい!」とかいうチャキチャキのアンちゃんを思い出すかもしれないが、じとっと陰湿で澱んでいる、粘着質の巨大な濡れ雑巾みたいなやつである。それがぞよぞよとスローモーに動く。 なんてことはない、スティーブ・マックイーン『人食いアメーバの恐怖』(1958年)。まんまパクりじゃないの? とはいえ、この手のB級SFに目がない私としては十分楽しめた。アメーバそのものより、アメーバに脳を侵食された男が怖い。一種のゾンビ物になっている。
● マイマイ新子と千年の魔法@ラピュタ阿佐谷 前売りを持ってたのに、アッという間に早朝上映に切り換わっていた。朝9時に新宿ピカデリーまで出頭するのは千葉県民には無理である。 で、年末にラピュタのレイトショーに出かけたら、満員で断られる。その後アンコール上映が1カ月ほど続いたらしい。2月に入り、さほど難なく席をゲットできた。ずいぶん洒落たミニシアターで、こんなの東京以外ありえないよなあ。 片渕須直監督は高校の先輩にあたる。よくもまあ、あんな酷い学校からアニメの道なんか志したもの。ひとかたならぬ苦労があったろう。がんばって頂きたい。『アリーテ姫』もよかったしぃ、などと勝手に思いこんでいた。 が、今回の作品には幻滅した。稲穂がたわわに実る、千年王国日本を寿ぐ国策映画であった。ちょっと呆れる。そりゃあ今の大衆にウケないはずだ。てか、これがウケるようでは甚だ困る。だからあえて批判しておく。 映画の中身は失われた田園生活へのノスタルジーを主題としたもの。田舎の自然美とか、人間関係というものを礼賛する。絵に描いたような文部科学省特選の雰囲気にいきなりドン引き。悪いがオレ、日本の田園風景って好きじゃない。田舎も嫌い。田舎者はもっと嫌い。 『アリーテ姫』がよかったのは、クライマックスに黄金の巨大飛行機が出てきたから。雪山を越えるスペクタクル・シーンがみごとだった。片渕さんは航空機研究家としても知られているらしい。本来は機械系の人なんじゃないの? それがどうしてこんな牧歌的なアニメを撮る巡り合わせに? 映画に出てくる元教師のじいさまが「千年前はここも都会だったンだ」とお国自慢するのは負け惜しみにしか聞こえない。川が直角に曲がるのが一体どうして自慢なんだ? それは古代国家の都市計画のせいで、そんなのが千年もつづいたのは「魔法」なんかじゃなく、むしろ封建国家の「呪い」とでもいうべきもの。水の流れを直角に捩じ曲げて恬として恥じない国家の横暴を恥じるべきなのに、逆にありがたがっている!>だから田舎者だというのだ。 映画の後半、盛り場が出てきて正直ホッとした。表向きは勇敢な警官でありながら、悪場所で身を持ち崩し、クビを吊って死んだタツヨシの親父さんの気持ちがよく解る。田園に救いなどない。田舎の人間関係は空虚で空漠としている。それに今さら家族に話すことなど何もない。生き地獄だ。だから彼は夜な夜な場末の鉄火場で博奕に興じ、安っぽい娼婦に入れ揚げたのである。 本来、自然に直線などない。そこに真っ直ぐな道を通し、川の流れを直角に歪め、大きな石を置いて、ここが中心だと定める。四方四面に秩序とヒエラルキーの網目を走らせる。外なる自然を人工の秩序に従わせることは、同時に内なる自然を飼い馴らすことでもある。感情や情念を型にはめ、馴致し、陶冶し、訓育することである。 人為に自然を従わせる。表面的には整然とした光景が現出する。田園にも人の心にも幾何学的な秩序が貫徹される。それに上手く収まらないもの、ゆがんだもの、曲がったもの、偏ったものは排除される。これこそ日本文化の千年の呪いだ。 幼い姫君のわがままはしごく穏やかに、しかし断固として否認される。下々の者と付き合うなどもってのほか。四角四面の壁に隔てられ、広大で清潔な屋敷内に閉じこめられる。これは『アリーテ姫』の孤独と異なるものではない。 タツヨシの父にしても、やり切れぬ想いは誰にも——妻にも息子にも理解されず終わる。縊死したあげく、その存在自体が村の恥辱と見なされる。残された家族は追われるように大阪に逃れるほかない。父に死なれた家族を受け止めてくれるのは大都会だけである。 本来なら盛り場のチンピラだけは不良警官の気持ちを察してやれるはず。ところがこいつら、子供たちに責め立てられ、急にションボリしてしまう。ガキんちょにねじ込まれ、肩を落とす。おいおい、いまさら反省してどうする?(笑)大人には大人の事情がある、堂々とふんぞり返って見せてやれ。ったく、小生意気なガキに手もなく説得されるようだから、お前ら、しょせん場末のチンピラなのだ。 タツヨシ君にしても「オレはまじめな大人になるんだ!」と決意するのはけっこうだけど、おじさんに言わせてもらえば、きみのオヤジはまじめすぎて道を踏み外したンだぜ。このことをよく考えたほうがいい。 マジメに生きよう、まっすぐ生きよう、一直線に進もうとマナジリ決して頑張れば頑張るほど、きみの人生は直線とか直角とかいうイメージに取り憑かれるようになる。幾何学的な観念に心身を支配され、枠に入り切らぬ世の真実を切り捨ててしまう。 前に進むためには必ずや何かを切り捨てるほかない。が、切り捨てたものは必ずや回帰する。きみの前に戻ってくる。いずれその逆襲に遭う。自分自身に復讐される。 きみの目には人生の真実こそが無駄なものに見えてしまう。自らを直線コースに無理やりはめこみ、人生の紆余曲折を無駄なく直角に曲がろうとすればするほど、きみは折れやすくなり、砕けやすくなる。ある日ポキッと逝く。まじめに生きれば生きるほど、きみは親父に似てしまう。終いにクビを吊る羽目になろう。 この父親は自分の息子にベーゴマの作り方ひとつ教えてやれなかったようだ。ま、それも道理。警官で、剣道の達人という設定なのに、肝心の木刀の握り方ひとつ息子に伝えられていない!というのも、一同が暗い防空壕に恐る恐る入って行くとき、タツヨシは木刀を上段に構えるが、つかの真ん中を無造作に握っている。こんな構え、ありえない! 日本の映画関係者は何度口を酸っぱくして言ったら解るんだ。左手の親指と小指で輪を作り、ここに剣の尻を乗っけてギュッと締める。中指を軽く添え、剣尖をコントロールする。とりわけ上段の場合はそうしないと宙で剣尖が安定せず、瞬時に剣を振り下ろせない。 こんなの基本中の基本だ。ヤクザがまず小指をツメるのは、それにより日本刀が使えなくなるからだ。それほど左の小指の果たす役割は大きい。木刀が1つの重要なモチーフになっているのに、親子の絆を示すどころか、こんな基本すら子供に伝えられず死んだダメ警官、という印象になってしまう。 近年の武士道復活を説く先生がたと一緒で、日本古来の剣の道について何ひとつ知らない。基本の基本すら解ってない。片渕さんは高校時代、体育の授業でゼッテー剣道をやらされたはずなのに。たぶん習った先生もオレと同じだ(笑)授業中、上の空だったンだろう。情けない。一事が万事で、ようは本来の日本の真面目について何も知らず、戦前に捏造された古い日本のイメージをアニメで再現しようとしている。 ツメの甘さを挙げて行くとキリがない。映画冒頭でいきなり気になったのは、新子が稲穂の海を突っ切って、突然おにぎりを取り出すシーン。いったいどこに入れてたんだあ?女の子の服にあれだけ大きいおにぎりを隠すスペースなど普通ありえない。 これが宮崎駿なら、決してそんな不自然なシーンを撮らなかったろう。食い物を主役級に考えているので、おにぎり1つ揺るがせにしない。だから宮崎アニメの食事シーンはどれもとても美味しそうに見えるのだ。 やたらセリフで説明する個所が目につく。ラスト近く、新子に「みんないい人たちやあ」と言わせてしまう。全部ぶちこわし。うわべは「いいひと」を装っていても、警官は博奕狂い、保健の先生は不倫狂いで、大人にはみんな後ろ暗い部分がある。それを学び、それを赦すのが成長するということだ。 映画のなかで子供たちはお互いに仲良くなるものの、個々人は内面的にいっこうに成長しない。「みんないいひと」で止まってしまう。世間の掟の前で、ぴたっと成長を止める。宮崎アニメはこれとは根本的にちがう。 物語の構成上の最大の問題点は、現代と千年前を重ねる手法そのものにある。アイデアとしては大変おもしろい。だが観客を混乱させることなく、それを活かし切ることに成功してはいない。残念ながらアイデア倒れに終わっている。 てっきり千年前のお姫さまの生まれ変わりが転校生・貴伊子だと思っていたのである。あるいは新子自身とか。それなら話の平仄が合う。ところがそこに第3のキャラクターが現われ、観客は混乱する。な〜んだ、お姫さまは新子とも貴伊子とも全然関係なかったんだ。 せめて新子とタツヨシがはかない恋心を抱き合うように、千年前のお姫さま・諾子(なぎこ)にも誰か相応しい相手がいればよかったが、出てくる男の子・千古(ちふる)はどん百姓のせがれ。恋どころか、なぎこはその貧しい家族の前で人形劇を披露して見せる。あくまでお姫さまは民衆を前に絶対的に君臨している。盛り場でともに危険を切り抜けた新子&タツヨシのカップルとは比べようもない。昔と今で、いっこうに対称性が成り立たない。たぶん本来の客層であるはずのお子ちゃま達には何が何やらわけが解らないだろう。 個人的には「緑の小次郎」がとてもよく、子供の頃ああいうのをよく見かけた覚えもあり、これが物語にどう関わるのかと注目してたら、とくに関与せず(笑)がっかり。こういう人間の思惑を超えた存在というか現象を描くことこそがアニメの醍醐味だったはず。もしオレなら『マイマイ新子と緑の小次郎』という映画を撮るね。 つまり自然をどう捉えるか、だ。人間の言うことを聞く、飼い馴らされた自然など人工の牢獄でしかない。自然とは壁を越えて流れ込んでくる春の息吹であり、直角に区切られた田畑を越えて氾濫する水の流れである。そんな根源的な自然のエネルギーに触れねばならない。日本のアニメは宮崎駿とともに、そんな道を切り開いたはずなのに。これでは戦前への逆戻りだ。 たんに自然を描けばいい、日本の山河を描けばいい、というものではない。自然のなかに人為を超えたものを見る。そうすることで自然にたいする畏敬の念を取り戻す。それこそが私たち日本人の文明論的な使命である。片渕さんは宮崎駿から多くを学びながらも、この肝心な点が解っていない。 魔法とはかけるものではない、解くべきものだ。日本文化にかけられた千年の呪いを解かねばならない。理性という眠りから目覚める時、その時こそ本当の神秘が、すなわち自然の本当の姿が私たちの前に立ち現われる。私たちは自らが深い根源的なエネルギーに満たされるのを感じるだろう。
歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てましょか 松本隆は1949年生まれ。今年で還暦だ。団塊の世代というやつ。大蔵官僚の息子で、慶応ボーイ。村上春樹と同じ年だが、言葉の才能という点から言えば、おそらく村上より遥かに上だろう。大衆消費社会における詩歌の革新者の1人と言っていい。 番組のなかで「売れる」ということは大衆から評価されている、すなわち優れているということなんだ、と力説していた。あの世代はみんなそう考えている。ほとんど例外がない。数は力であり、カネだった。そのことに悪びれない。 それにしても、さすがNHKである。立ち上がり、質問する学生1人ひとりに「○○大学○○学部の○○です」と所属を言わせる。そんなの、たんに名前だけでいいだろ。大学が若者の「所属」扱いされている。それを当然のように思っている。度しがたく権威主義的だ。虫酸が走る。 で、KO大学の眼のキラキラした女のコが「私は歌の世界ってマーケティングだと思いますぅ〜」と、あっけらかんと口にする。さすがにそこまで身もふたもないことを言われると松本はたじろぎ、色を成して反論する。「いま流行っている歌が作られたのは半年前。それをマーケティングし、マネした曲を出すにも半年かかる。そんなこんなで1年経った頃にはもうマーケティングの意味など無くなっている」。マーケティングなどしても無駄だ。自らの感性を信じよ、というわけ。 女のコの目はキラキラしたまま。反論されたことにも気づかない。佐野元春はしごく聡明なやつだから「キミはいい質問をした」と、そつなくまとめた。 じつはオレも20年前、おなじことを学生から言われて返答に困ったことがある。ミュージシャンを目ざしている眼のキラキラした青年がそう口にした。小室哲哉全盛期だった。つい最近も似たようなことをレポートで書いてきた者がいた。学生の意識はこの20年で全然変わっていない。まったく同じ地平でグルグル回っている。 「マーケティング」という言葉で彼らが考えているのは専門的な経営&商業戦略などではさらさらない。マーケティングが具体的に何をやることなのか、どうすることなのか、何ひとつ知らない。たんに「世間にウケたい」「人気者になりたい」というだけのことである。「売れることが全て」、別の言いかたをすれば「質」など関係ないと言いたい。 自分の楽曲が歴史的に評価されるかどうかなど関係ない。そんな辛気臭いことなど考えたくもない。そうした「アカデミック」な評価とは無縁に面白おかしく売れっ子としてやって行きたい。——そう思っている。とても明るい。バカは明るい。 で、これは実のところ松本隆らの世代が目指した生き方と異なるものではない。だって「売れることこそが世間の評価であり、カネにならないものは意味がない」と本人が番組のなかで明確に述べている。ただ違うのは松本には抜群の才能があった。これにたいし「マーケティング」などという生半可な言葉をウッカリ口走るような若者には才能など全然ない。言ってみれば、それだけのちがいだ。もっとも、その隔たりこそが問題なんだけど。 実際のところ「売れればいい」「売れなければ価値がない」という1点で古い世代も、より新しい世代も意見が一致している。というか、この信念が70年代以来ずっと「若者」と呼ばれる日本の人間集団において分かち持たれて来たと言っていい。40年のあいだ何にも変わっていない。「売れればいいと思っている人たち」。これが日本の若者の定義だ(笑) もっとも団塊の世代は数を背景にして実際に売れた。これにたいし今の若者はたんにメディアに乗っかるだけで、ちっとも売れてない。ちょっと売れても、たちまち没落する。音楽としての質が低く、自らの世代を超えてアピールする力がないからだ。にもかかわらず「売れるのが全て」の価値観にしがみついている。オヤジたちに騙されているのだが、バカだからさっぱり気づかない。いや「バカ」と言っては失礼だ、「素直なお坊ちゃま達だから」と言い直そう(笑) そのあげく歌の世界がどうなったかと言えば、いまやCDがさっぱり売れず、業界自体がほとんど衰亡しようとしている(笑)誰も売れることしか考えなかった。音楽の質は等閑にされてきた。そんなことを半世紀近くもつづけ、日本の歌はほとんどスカスカになった。 松本の時代には古い歌謡曲の世界が権威として頑と存在した。だから「売れることが全て」と言い放つことには一定の批評的な意味があった。同世代の支持を受け、数を背景に業界を制覇する。造反有理。かれらの世代はこうした自らの立ち位置に今なおしがみついている。 あいにくその後「売れることが全て」という価値観が日本中を覆い尽くした。誰もそのことに異論を唱えない。至るところで商業主義がまかり通る。こんな状況下で、いま初めて自分が発見した真理であるかのように「歌ってマーケティングですう」と口走る若者はバカ以外の何者でもない。救いようがない。 まじめぶって成功者のお話を伺うだけで、それに挑み、挑発するような者が1人もいない。従順で飼い馴らされていて、誰でもとうに気づいているようなことを改めて口にするだけ。それが「若者」という種族だ。おそらく日本の若者はこの40年ほど本質的に変わっていない。 むろん松本のような鋭敏な才能は「あ、こいつらダメだ」と気づいている。かれはいつも他人とは距離を置いてきた。狷介な才能だ。嫌われることは口にしない。たんに「若者は普遍的なものを目ざすべきだ」とキレイゴトを言うだけ(笑) しかし、その場合の「普遍」とは何なのか。歌の本質とは何なのか。そもそも表現とは何なのか。松本の世代は真剣に考えたことが一度もなかった。いまだに売れること、ウケることが全てだと思っている。数を取ることにしか関心がない。だから日本の歌は死んだのだ。 歌が死ぬとき、理想も死ぬ。 ♪ 歌を忘れたワカモノは茨の鞭でぶちましょか (いえいえ それは気持ちよさそう) 追記) ちなみに松本隆と松任谷正隆をオレは時々混同する。2人とも東京出身の慶応ボーイで、2歳しか違わない。顔も雰囲気もそっくり。これは多分偶然ではない。日本の支配層のある種のエートスを反映している。 なお佐野元春をメタボ化すると茂木健一郎になると思われる。 |